人との出会い ~ 中島 隆 氏 (元専務) ~
人との出会い ~ 中島 隆 氏 (元専務) ~
2003-04-01- 人との出会い
- 株式会社 中山組 中島 隆 氏(元株式会社中山組 専務取締役)
私が中山組に入社して早いもので54年の歳月が経過しました。その間には色々な出来事がありましたが、おぼろげな記憶をたどりその色々とあった出来事を書き綴ってみようと思います。
私が中山組に入社したのは、終戦からまだ5年ほどしか経過していない昭和25年10月で、物資も少なく生活状態が苦しい家庭が多かった時代でした。しかし、その様な時代でも、私は現場生活だったため食事に銀シャリをたらふく食べる事が出来ていたことを思い出します。
入社後初めての現場が、GHQの見返り資金による石狩川新篠津護岸工事でした。主任は杉野さん(故人当時31歳)と言う人で、「鬼の杉野兵曹長」とあだ名されるほど厳しい人でした。
始業は午前5時で終業が午前0時、就寝は午前1時過ぎという生活でした。なぜ就業時間が長いかと言うと、現場が終わってから内勤業務があったからで、その内容は、平均で110名〜130名程も従事している労務者の、「物品扱い」「出面表付け」「野帳整理」「月末の賃金台帳制作」等で大変な仕事でした。しかし、ここで得た事は、現在の原価管理の基礎に繋がる技術員が内勤業務を理解する事の大切さであったと思います。また、杉野さんの厳しさのDNAも私がしっかりと受け継いだようです。
また、原価管理が如何に会社にとって大切な事かを教わったのが、山澤秀雄常務(故人)でした、常務は常日頃から「中島よ俺たちは技術屋なんだから、技術をおろそかにしてはならない。しかし、反面は商人でもあるんだ。商人はその日その日の仕入れと売上を常に把握していなければならない。それを大きくしたものが会社であって、原価把握は一番大切な事なのだ」と聞かされておりました。すなわちこれが中山組が長年に亘って培ってきた原点であると言う事です。
長い間ですから色々な方との出逢いがありました。
昭和26年の徳富川築堤工事の現場に大塚清一さん(故人当時61歳)という世話役がおりました。この人は昔のタコ部屋出身で、いわく「タコで偉くなるには何回も違う組へ逃げ出せる者が出世するのだ」と聞かされました。彼は別名「トビッチョの清」と言われていたそうで、彼がよく言ってた事は「レベルで見るより、俺の目トンボの方が正しいんだ」でした。なるほど、距離2.5?の築堤の高さで私のレベルとの差が3.5cmしかなかったのには驚かされました。それと隅丁張の勾配の出し方は、片方1割でもう片方が1割5分の場合「1+1.5=2.5×7=1割7分5厘」となることを教えられ勉強になったものでした。
もう一人の世話役で、野田さん(故人当時51歳、別名野田のケッチョ)という人は、民謡が上手で「野田錦月」と言う芸名で江差追分を得意にしており、祭りとか何か催し事があった時などはよく美声を聞かせていたものです。
昭和27年頃の千歳道路の事務所には、当時炭鉱が長期にわたりストライキを起こしていた事もあり、夕張炭鉱の人を20人程臨時雇用していた事がありました。その中に竹谷江子さん(当時21歳)という人がいました。炭鉱で事務を執っていた事から、現場事務員として雇用していました。彼女と色々と話をしているうちに「私、国体の円盤投げで全国3位になったんですよ」と聞きました。なるほど身長も170?以上もあり、がっちりとした体形をしていました。12月で雪が積もり服装も厚着でしたが、ためしに投げて見せてもらったところ、素晴らしいスピードで円道を描き、ちょうどゴルフの上手な人が描く球道に似ていたのはさすがでした。
もう一人は炊事夫をさせていたミスタージョニー(当時31歳)のことです。ジョニーは和歌山県の生まれで、召集で軍隊に入りボルネオで英国と戦ってるうちに終戦となり、捕虜として将校のボーイをしていたそうで、帰国して各地を転々として千歳の現場に辿り着いたのだそうです。現場は11月〜3月の間は工事中止になる為、冬期間は大曲〜北広島〜千歳のルートで行く事になります。ちょうどその頃、朝鮮動乱が勃発して、千歳駐留の米兵が朝鮮に派兵されて行きました。行く時は弾丸道路(36号線)を通って行ったのだから、帰りも通れるものとジープで現場に突っ込んで身動き出来なくなる米兵が多く、それを助けるために私はジョニーを呼んで「ジョニー、アメチャンがあずっているから助けて来い」と言い、ジョニーとD2(キャタピラ社)のブルドーザーの運転手と二人で行かせました。20分程で帰ってきて「アメチャンがくれました」と煙草2カートンとビスケット3袋を貰って帰って来ました。その後5〜6回行かせましたが、ジョニーには「今度から煙草だけ貰って来い」と言いつけると、その通り以後は全部煙草でした。煙草の種類はラッキーストライク、ラレー、チェスターフィルド、フイリップモリス、キャメル等、この現場で煙草の種類を覚えたようなものです。ジョニーの片言英語がこんな処で役に立つとは予想外でした。
昭和28年には、上徳富築堤工事の世話役で渡辺仁吉さん(故人当時58歳)という人がいました。秋田県の出身で温厚な性格ですが一本芯が通ってる人でした。特技の線路施設(中でもサイジングの施設)は抜群に上手い人でした。
ある日、仁吉さんが現場で仕事をしていた所に、渡世人風の男が来て、いきなり「軒下、三寸借り受けましての仁義、失礼さんにござんす。手前生国と発しまするは関東にござんす。」の口上。ちょうど側に私がいましたので「おじさん、私達はシロウトなんだから、それは止めて下さい」と言いますと、「お兄さんよ、実は今日はなにも食ってないんだ飯があったら食わしてくんな」と言うものですから、飯場でご飯を食べさせました。帰りがけに「有難うござんした、この恩一生忘れません。では御免なすって。」と言って立ち去りました。
もう一人、細川寅蔵班長(当時51歳)、おやじは青森県出身で性格は従順で包容力のある人でした。労務者を毎年30〜40人程連れて来ておりましたが、欠点は酒好きで、一日中酒の匂いをさせ、就寝中にも何かぶつぶつ話している様なので、おやじに「おやじ、お前寝てる時もぶつぶつ話してるんだけど、なにを話してるんだ」と聞くと、自分では何も分からない(若い頃酒のため精神病院に入院した事がある)との事で、24時間話しっぱなしなのでバッテリーが切れないように蓄電をする。そこからあだ名が蓄電池と付けられたそうです。
同じ頃、白滝発電所工事に草加さん(当時58歳ぐらいで役場から派遣されていた)という監督さんがいて、毎日の様に現場へ来ていました。この人は石の成分を見分ける事が得意な方で、機嫌の悪い時などはただの石ころを持っていって「草加さん、この石に何か入ってますかね」と質問すると、「どれどれ」と言って虫眼鏡を出して真剣に調べてるのです。見終わって「これはただの石ころだな」と先程の不機嫌さは何処えやらでした。私達もこの監督(素人)さんだけには顔に泥を塗るような事はしない様に注意して工事を行いました。
この年に第一回目の十勝沖地震がありました。ちょうど水圧管の測量をしていた時で、縦揺れがありましたが、まさか地震だと思わず、近くに馬車がいたから馬車がぶつかって来たもんだと思い、「おい何をやるんだ」と馬夫を怒鳴って横を向くと馬車もろとも転覆しており初めて地震と気付きました。震度は5だったそうです。
昭和29年、当時中山組の技術力では不可能に近かった発電所工事(247KWA)を中山組が単独で完成させたことは、中山の歴史の1ページを立派に飾った工事の一つではなかったでしょうか。(成せばなるです)
昭和36年、中士幌灌漑排水工事の監督に渡辺時男さん(当時25歳、京大)という方がおりました。ある日の落差工の鉄筋検査当日に気付いたのですが、柱の主筋19mmのところ16mmで組立ててしまっていました。そこで渡辺さんは「ちょっと待ってください」と言って頭の中で計算しているのか、頭を上下に振って5分ほどして「解かりました9mm鉄筋を2本結束して主筋に抱かせてください」と言われ時は「暗算でなー、頭が良いな」と関心させられたものです。
彼は本当にまじめ人間でした。ある日、ある工区のインバートに玉石を入れてコンクリートを打っているという投書があり、その現場の担当も彼だったことから、私に「中島さん一緒に行ってもらえないだろうか」と言われました。しかし、私は「同業者の現場に行くのはまずいよ、渡辺さん1人で行っておいでよ」と固辞しましたが、どうしてもと頼み込まれ仕方なく一緒に行くことにしました。
投書の件はその現場の担当者も知っており、渡辺さんの来るのを待ってたようでした。そこにはヤクザの親分のような男が一人だけいて、いきなり「あんたが監督か、俺の現場にチャンつける気か、もし何も無かったら、落とし前を付けさせてもらうからな」と言われ、世界が違うので渡辺さんは一言も言わずに現場を見て帰ることにしましたが、現場では普通のコンクリ−トを打っており、真相は定かでありませんでした。渡辺さんは翌年京都に転勤されました。今でも彼とは文通しています。
それに田中さん(故人当時56歳)という世話役に一時手伝ってもらった事が有り、彼が話していたことですが、戦時中樺太の現場(ある大きな会社の工事の下請け)でタコ(タコは何も食べる物が無くなると自分の身を食べる事から)部屋の幹部をしてた頃、病気で働けなくなった タコ2人を日本刀で切り殺した事があったそうです。「命の尊さ」人命軽視もはなはだしい、後味の悪い話でした。
中山組は企業改革を徹底的に行うために日本コンサルタントを招聴しました。私が教わったのは昭和40年頃からで、講師は何人も来られましたが一番長くおられた方が糸魚川先生と向井先生のお二人でした。
それまでの会社の組織はあって無いようなものでした。まず会社自体の目標と方針を定め組織(縦割り方式で各部の競争力を競い合わせる)を作り各目標に向かって邁進させること。毎日のように組織だ、利益だ、付加価値だ、社員のローテンションだと午前9時から午後4時までビッシリと講義を受けました。これだけ毎日同じ事を教われば自然に覚えざるを得ません。戦時中の洗脳教育に似たようなところがありましたが、この企業改革をしなければ今日の中山組はなかったでしょう。私も大いなる洗礼を受けました。この改革を断行された経営者に心から敬意を表します。
最近では、公共事業も年々減少傾向にあり、特に中山組のような官庁依存度の強い会社ほど受注に大きな影響を及ぼす傾向にあります。会社の体質の強い内に出来るだけ軽い体質にしておく事、他異業種の会社との連携で何か新製品を開発するなど「言うは易、行いは難し」ですが、将来の方向付けとして必要ではないかと思います。
私事本年3月を持ちまして中山組を退職いたしました。人生において、数多くの方々と出会えましたことは私にとって何よりの糧となり、出会った皆様よりお受けした数々のご指導ご協力により大過なく無事勤めさせて頂きましたことに厚くお礼を申し上げます。
最後になりましたが、中山組の益々のご隆盛と、皆様方のご健勝をご祈願申し上げ文を終らせて頂きます。