土木一筋40年を振り返り ~ 橋尻 貞義 工事課長 ~

土木一筋40年を振り返り ~ 橋尻 貞義 工事課長 ~

土木一筋40年を振り返り
株式会社 中山組 第1土木事業部工事課長 橋尻 貞義

昭和38年、滝川工業高校卒業後40年の長期にわたり土木現場職員としてお世話になりました。思い出の一端を書かせていただきます。

最初に行った現場は、北村の軌道客土の現場見学でした。機関車、エキスカベーター等の今まで見たことのない機械を興味一杯で見ていました。機関車に乗りいたずらしているうちに動きだし、あわてて止めようとしたが分からず、後少しで線路が無くなる所で、運転手の高橋さんが飛び乗り止めてくれた事がありました。幸い小池所長が不在でばれずに済みましたが、ばれていたら大目玉を食うところでした。

最初に測量を教わった現場は厚田林道でした。所長が舘沢さん、測量を教えてくれたのは、布村(後の営業部長、故人)さんでした。私と佐々木義雄(後の釧路営業所長)さんは、気合いを入れられ、時には励まされ、丁張りの掛け方を教わりました。そこでの生活は幕舎生活で、大きな幕舎が何棟も建ち、作業員は100人以上居たと思います。朝明るくなる前からワカメを切る音で目が覚め、夜は7時頃食事をしら9時前にはランプを消して寝る生活でした。

ようやく丁張りを掛けれるようになり、富良野の国道38号線の道路改良工事に行きました。スタッフは所長橋本さん、技術員岡田(後の営業部長)さん、世話役小野さん、帳場米島さん、機輌の須藤(リャンピン)さんと壇さんでした。延長3kmの道路改良と橋梁1ヶ所の工事でしたが、私は測量手元を一人与えてもらい延長3kmの区間をリヤカーに測量材と器具を積み、朝から晩まで丁張りを出す毎日でした。私は自分の出した丁張りに添って道路が出来る喜びも有り、そんなに疲れた感は無かったのですが、手元の方が4〜5日すると参ってしまい休まれるようになりました。当時は人力施工が主体で、機械はブルドーザー1台、役所から貸与されたタイヤローラー1台だけでした。

人力施工の方は作業員一人一人の個人請負又は小回り(一日分の見合う仕事を与え何時に終了しても一人工とした)で作業を与えており、その出来高を毎日世話役と測り事務所に帰って報告するのも日課でした。夜仕事が終わっての生活は、プレハブハウスの1階に事務所が有り、食堂、所長の部屋と岡田さんと米島さんの部屋があり、私達は2階の大広間に世話役の小野さんと機輌の二人ほかに班長さん等と寝泊まりしていました。

世話役の小野さんは毎日晩酌をしますが、最初は食堂で飲んでいるが必ず大工の桜井進さんと一緒に私達の部屋に来て、私の枕元で飲みながら口論となり、時には鉞とか鋸を振り回す事も有りました。ある日の朝起きて見ると労務宿舎の硝子が割られ一枚も残っていなかった事が有りました。桜井さんの仕業でした。ちなみに当時の労務宿舎は間口3間のプレハブハウスの中央に土間通路が有りその両側に一人畳1.5枚のスペースで寝ていました。

昭和39年のある日、山沢常務に呼ばれ中士幌幹線の現場に行く事になり、寝具をチッキに出し国鉄根室本線に滝川駅より乗車帯広駅で乗り換え中士幌駅に着き降りて2〜3分歩いた所に現場事務所が有り、迎えてくれたのは中島(後の専務)さんと前田世話役でした。この現場は延長4kmの3面ブロック装工の幹線水路で、私の担当は掘削工でした。当時はまだ油圧機械が無くワイヤー式のバックホー(0.6級)1台で掘削します。運転手は吉田さん、助手が福岡さんでした。朝はまだ暗いうちに起き(3時30分〜4時)助手の福岡さんを起し、福岡さんの運転するバイクの尻にトランシットを背負い、レベルを首からぶら下げ、三脚、スタッフを担いで乗り、現場に向かい作業開始。夜暗くなるまで(8時頃)の現場作業でやれやれ帰れるなと思い、事務所に行ってその日の報告、それから明日の番割り、今日の反省と続き、悪い所が有ったらカミナリが落ち、やっと開放されるのが9時〜10時。食事もそこそこに風呂に入ってバッタンキューという毎日が1月半位続き、掘削が完了してこれからすこし楽ができるかなと思ったら、明日帰れと言われ、これが2年続きました。後で聞いた話しで当時中山組に小池・中島・佐伯の三つの学校が有ると言われました。

最初に現場代理人で行った現場は、大谷地流通団地の下水道管埋設工事で、南工事長のもと無事完了する事が出来ました。その秋深川納内の神竜幹線の現場代理人を担当しましたが、この年は大変雨が多く9月に乗り込んでからほとんど毎日雨で、水路の中は水でいっぱいになり排水する所が無く、農家との苦情処理の毎日。そうこうしているうちに今度は大雪で仕事ができない状態が続き、役所からは叱られ、会社からは社長が心配して電話が来る大変な現場でした。その後何とか仕事が出来るようになり、技術職員4〜5名、機輌職員4〜5名、世話役3名、事務職3名作業員3班70〜80名で突貫工事。ここで初めて油圧のバックホーを使い、見てすばらしいと思った会社からO&Kと増井土木から小松ビサイラーズを使用しました。昭和44年の事でした。

昭和48年1級土木施工管理技士の資格を取る事が出来、この年10年目の社員旅行で沖縄・九州を観光する事が出来ました。オイルショックの年でもありました。

昭和63年、平成元年に釧路広里大橋の橋脚工事で、当社では初めての鋼管矢板井筒工法で橋脚1基3億円を2基施工させていただきました。発注者の釧路支庁も初めての工法でしたので、注目の中で私ももちろん初体験、下請けの原田重機も初めてで、巧く併合できるか、工事を円滑に最後まで出来るか、不安も有りましたが、監督員の金山さんがとても豪快、おおらかな方で良く相談に乗ってくれ、多少問題も有りましたが無事完了する事が出来、優良工事として発注者より表彰を受ける事が出来ました。2基目は前年の経験を生かしスムーズに工事を進める事が出来ました。

平成10年〜14年にかけ、小平処理場・江差処理場と2ヶ所の下水終末処理場を施工させていただきました。当社がメーンの本格的な新築処理場は初めてですが、土木60%・建築40%のRC建造物で、サブから来ている建築技術職員等で力を合わせ完成する事が出来ました。

小平処理場

このように土木現場一筋でやってまいりましたが、技術の進歩・機械の発達は猛スピードで進んでまいりました。例えば測量1つ取ってもトランシット・レベル・算盤〜光波距離計・電卓〜パソコンと移り変わりました。これまで40年間健康で仕事が出来たのも上司、先輩、同僚、協力会社、商社その他数多くの方々に支えられ、大過無く努めさせていただきました。この紙面をお借りして感謝申し上げます。