建築事業部の40年の変遷 ~ 後藤 久夫 建築次長 ~

建築事業部の40年の変遷 ~ 後藤 久夫 建築次長 ~

建築事業部の40年の変遷
株式会社 中山組 建築事業部 建築次長 後藤 久夫

昭和38年、私が株式会社中山組に入社してから早40年がたちました。当時の社長は中山吉次初代社長でした。滝川本社は石造りで2階建てで形は小さかったが重厚な建物でした。建築課(当時は事業部でなかった)の課員は7人で、その内の2人は土木の現場に長期常駐しており実質5人で、私が入って6人のごく小規模な課でした。土木は当時でも相当いたと思います。同期新入社員は10人で建築は私一人でしたのでビックリし、何か不安を覚えたことを思い出します。

当時の工事内容は39年から41年頃は、防衛施設局、住宅供給公社、開発局営繕、道営繕、滝川市の5官庁の工事が主たる発注先だったと思います。これは現在も永く続いております。

建築事業部の受注の移り変わりは、何と言っても民間工事に顕著に現れていると思います。そこで当社の民間工事の変遷を、私ながらに思い出と共に簡単に語りたいと思います。

建築事業部の歴史の中で武藤福衛常務を語らずして建築を語ることは出来ません。当時の役員の中で、唯一人の建築出身の方で、私達建築課員の本当の意味の親分でありました。私が現場代人になってからも現場視察に来るのは武藤常務が圧倒的に多かったし、何事を相談しても良く解ってくれた人でした。当時の課員は皆、常務と直接打ち合わせていました。

昭和45年に当社で初めて施工する富良野ボウリング場の現場代人に私がなった時、レーンの機械屋から施工精度の制約が数多く出されました。その対策で施工方法から実行予算に至るまですべて武藤常務と綿密に打合せながら施工したものです。

よく絵を描いて説明される方で、図面を広げて、あーしよう、こうしようと図面が二人の鉛筆で真っ黒になるまで論議し教えてもらったものです。何か問題があるとすっ飛んで行って相談しました。お陰様で制約も守れ工期の短いなか無事竣工することが出来ました。私もこれで大変自信がついたものです。その後、芦別中央ボウル、滝川エースレーン、空知ボウルと続いて行ったのです。

44年から47年にかけて伊藤組土建とのJV工事が多くなり、当社の技術的発展の元となったと思います。滝川の猪股興産ビル、青年体育センター、ホテルスエヒロ等があり、当社がそれまで施工したことのない大型高層ビルは皆、伊藤組土建とのJVでありました。青年体育センターの現場に私も派遣されましたが、そこで覚えたのは、マニュアル化された施工図の書き方で、それを見習い覚えその後の現場に取り入れ、若い人にもドンドン書かせたものです。

当時、私の現場に新入社員として来ていた鎌仲政光さんに、今でも言われることは「人使いの荒い人だ。新人の私に夜も寝かせずに施工図書きをさせた」と今でも恨まれております。

もうひとつは実行予算書の作成でした。伊藤組土建の予算書は実に詳細に作ってあり、それを参考に建築事業部の実行予算書作成マニュアルを作り上げたのです。その後何回か改訂を重ね今の実行予算書となっております。

46年から48年頃は民間工事が多くなり官庁工事を上回るようになってきました。特に多かったのがホクレン設計の農協の工事でした。当時、空知の農協は松村組の牙城でしたが、その一角を突き破り続々と仕事を獲ったものでした。多度志、江部乙、雨竜、新十津川の農協事務所店舗などがありました。

又、病院工事も多くなり、沢田歯科、戸井整形外科、武田医院、田中医院、田畑産婦人科などがありました。

49年から50年頃からは、札幌での受注が多くなり滝川を上回るようになってきました。建築職員の半分は札幌支店へ移動し、52年には私も札幌に転勤となりました。

53年には建築の本州大手企業より堀井修建築部長、玉井敏夫積算課長が入社し建築の機構改革が行われました。この年から積算課が誕生し受注拡大に意欲的になりました。この年は、中山組が単独で初めて施工する、SRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)9階建の高層建築物の本格的な分譲マンションを受注しました。日商岩井発注のS4マンションです。堀井部長の指導の元、私が現場代人となり、中川進さん菊地吉男さん熊谷茂さん中山昌裕さんの5人で総力を結集して施工しました。その後の建築事業部の意欲と飛躍を象徴する建物でありました。

建築事業部の移り変わりの中で、堀井部長の入社も大きなターニングポイントでありました。特に技術にうるさい人で、技術面は格段に向上したと言えます。

顕著に表れているのが1級建築士の合格が増えたことです。堀井部長が在籍していた8年間に1級建築士の合格は8人位一挙に増えたのです。教育熱心な人で自分で試験問題を手書きで作り、私達に試験を受けさせたのです。ビックリしたけど、充分皆の目を覚まさせたのではないかと思います。学校へ行く人もいて、皆必死で勉強したものです。お陰様で私も合格させていただきました。堀井部長には大変感謝しております。

その後、積算課の効果もあり大型マンション工事など続々と施工できるようになってきました。

平成5年には、滝川市庁舎(30億6千万)に代表される大型工事もスポンサーで受注することが出来ました。

昭和38年に私が入社した当時の職員7人から現在では52名、営業など他部門へ移った人も入れると63名になります。

昭和45年当時で職員18名、施工高は約6億位でした。今改めて考えると建築事業部の工事量も質も隔世の感があります。

しかし、内容は苦しい時代の方が圧倒的に長く、良い時代は一時でした。その苦しみを何度となく乗り越えてきた歴史があります。幸い建築事業部にも若い力が大きく育ってきております。今後新たな変遷を経ながら更に大きく育っていけるものと確信しております。

滝川市庁舎